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祖母や父から、故郷、松江の噂話はさんざん聞かされてきた私であったが、実際、松江をこの目ではじめて確かめ得たのは、昭和29年の9月、祖父の命日であった。 これは、祖父の50回忌法要を松江市が主催され、我々家族、両親と私は、万寿寺での法要に、同市よりお招きうけたからである。残念ながらこの日は“洞爺丸台風”来襲時にぶつかり、嵐の中の法事となってしまった。 当時、岩波書店から「岩波写真文庫」が出ており、この中の『松江』と『出雲』という薄い本を、早速買い込み胸を躍らせながら読んだ記憶がある。 戦後、約10年になろうとし、多少の余裕も出てきた頃で、確か直通の“出雲号”が出たばかりのように覚えている。 |
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中海の夕景
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日本でもリクライニングシート付きの特別二等車が出来、この“出雲号”にも連結されていた。夜の九時頃に東京を出発し、翌日の夕方薄暗くなった頃にようやく松江に着いた。当時の私にとっては、今の海外旅行より、遥かに旅に対する魅力も迫力もあった。
安来駅を出て間もなく、雑音の多い車内放送からは、“安来節”と、車掌の松江紹介がなされた。父は苦笑していたが、こちらは、“なるほど松江は遠い国”との印象を、ことさら強く感じた。
夕暮の中海湖畔を行くSLの汽笛が、妙に長く寂しく、それに親近感さえ覚えた。松江とは初めての出会いであり、これが初恋へと発展していった。今でもこの時の感動は忘れ得ない。
丁度、6年ほど前から一人息子の凡が松江でお世話になり、否応なしに何回かの往復もあり、今では東京のほうが出店のような感じになってしまった。考えてみると、雑然とした都会には、人を落ち着かせる雰囲気はなく、心に抱く故郷のイメージとは余りにも開きがあり過ぎる。
私には最初の汽車の旅が拭い切れず、便利さはわかっていても、松江入りはどうしても列車で行きたいのである。家が新横浜に近いせいもあるが、伯備線に乗り換え、備中高梁を経て中国山脈を越え、伯耆大山を見て、米子へ、中海を見ながらゆっくり松江入りというコースが、私自身旅と故郷への思いの、心憎い演出なのである。
私の人生における、「島根」というイメージは、夢から現実へ、再度ロマンを求めて彷
し始めているように感じる昨今である。