もう一つの、新しい風の主
一本の道が変えたものは、ハードの部分だけではない。とかく、引きこもりがちな地方の人々と都会の交流を促すことにもつながった。
平成5年、埼玉県のある高校から農村体験の申し込みがあった。旭町のほか、近隣の金城町、弥栄村で分担して引き受けることとなり、旭町では95人の高校生が農家などでホームスティをすることになった。
当初、受け入れ先ではトイレや風呂の設備が整っていないことなどを理由にちゅうちょする声も上がった。しかし、訪れた高校生は五右衛門風呂ごえもんぶろや庭先で採れるカキに驚き、芋掘りや千しガキづくりなど生まれて初めての農村体験と、そして何より飾らない旭町の人々のやさしさに感動したという。
目頭を抑えながらの別れの後、一緒に植樹した木の写真や干しガキを送りたいなどの声が受け入れ先から上がってきた。短い時間の中で、互いに生涯忘れることのできない深い交流が行われたのでである。
旭町は人口約3400人の小さな山村だ。そこには炭焼き、米や野莱づくり、川魚捕り、山芋掘り、田植えばやしなど多くの名人が住んでいる。旭町は都会の若者が訪れることによって刺激をもらい、名人たちの知恵を授ける。こうした交流は町に吹き始めたもう一つの新しい風なのである。
小さな山に大きな夢を
託す住民
たわわに実った赤梨の収穫は初秋だ。一つ一つ手塩にかけて育てた果実を大切にもぎ取るこの時、生産者の苦労も実る。
旭町が赤梨栽培に力を入れ始めたのは昭和58年のこと。後継者間題や減反で米以外の作物にも目を向ける必要が出てきたからだ。赤梨は、気候が旭町と比較的似ている広島県世羅町が産地。その世羅町をモデルに6年を準備期間に費やし、平成元年から出荷するようになった。甘くみずみずしい赤梨は旭町の新しい特産だ。
その赤梨を生かして、新しい名物づくりに余念がない高子富二郎たかすふじろう(43)さんは、赤梨のタルト、ゼリーなどを作る菓子職人だ。旭町の人口の約3分の1を占める今市地区で和洋菓子店を営んでいる。
その今市地区には、シンボルとして町民が親しんでいる家古屋山かこやさんが町を見下ろし、山の斜面には、春ともなればピンクや白に染まるツツジの「旭」の文字がくっきりと浮かんでくる。
高子さんは、全国の市町村で町づくりが盛んだった昭和の後半、田舎でありながら自然と関わる機会が少ない今の子供たちに、自分たちの生まれ育った町をもっと理解し自然に触れて欲しいと、「椎しいの木会」をつくった。会員は約20人。主旨に賛同する今市地区の住人をはじめ、教師、旭町に長期出張している土木作業員などさまざまだ。会への出入りは自由。「来るものは拒まず、去るものは追わずの精神で、長く続けたい」と言う高子さんの願いどおり、発足してから12年目を迎えている。
活動は、年に数回の家古屋山の整備だ。「旭」の文字の植え込みや登山道の整備、周囲の草刈りなどを中心に、会員は活動に参加するごとに1回千円の会費を払うというシステム。しかし近年は、町役場の紹介で県道の草刈りなどをして会の運営費や資金をためている。その資金は、家古屋山の登山道を花でいっばいにしたり、登りやすい石畳にしたいという会員の夢を実現させるために使う予定だ。「千円出しても参加したいという人ばかり。僕たちは、この会で夢を買ってるんです」と、高子さんは熱く語る。木々が芽吹く早春のにおい、汗をびっしょりかきながら蝉せみやカブトムシを捕りにいったこと、落ち葉をかき集めはしゃいだことなど、会員の胸に刻まれた幼いころの思い出がこの活動を支えている。
この家古屋山の項上には、直径5.5メートルの椎の木が立っている。その古木の下に平成3年、タイムカプセルが埋められた。そのカプセルの中には、町内の小、中学生が撮ったふるさとの風景写真がネガと一緒に入っている。約30年後、成長した子供たちがそのカプセルを開ける日がくる。そのころ、子供たちに、旭町を担う立派な大人に成長していて欲しいという大人たちの願いが詰まったカプセルでもある。
コツコツと手間を掛けて、
ふるさとづくり
旭町の高齢化は近年、横ばい状態だ。平成4年から5年間のU、Iターンは約40件。そのUターンの一人である向井満樹(37)さんは、4年前に大阪から家族五人で旭町に帰ってきた。現在は専業でバラ栽培をしている。「楽しいのは大阪でしたが、落ち着けるのはやはりふるさとですね。帰ってきて良かったかどうかは、自分の頑張り次第だと思います。僕は、あともう少しの段階かな」と、バラのつぼみに囲まれて笑う。手を抜けばそれなりに、手間を掛けれぱ掛けた分だけバラはこたえてくれるのだ。
豊かな自然に、広島市まで車で約一時間という利便性が加わり、旭町は確かな歩みで変わりつつある。しかし、住みよく、活気ある町は、そこに住む人々の気持ちと行動次第だということを旭町の住民は知っている。