化粧した若者が「ヘンヨー」の囃で大太鼓を打つ「陰陽胴」


神前での礼拝を終え引き上げる馬子たち


神相撲を奉納する子どもたち


白ウサギの月神に対して礼拝中の行司

隠岐郡西郷町の武良祭風流おきむらまつりふうりゅう。水若酢神祉(五箇村)の祭礼風流、玉若酢神社(西郷町)の御霊会風流とともに隠岐の三大祭りの一つである。
その名は、承平7(937)年に編纂された『和名抄わみょうしょう』に、この地域を役道えにぢ郡(隠地郡)武良郷とあることから付けられている。ちなみにこの地域とは、祭りに参加する西郷町大字西村・湊・中村・元屋・布施村大字飯美・布施のことだ。
武良祭の起源は建久4(1204)年、佐々木定綱が幕府より隠岐地頭を拝命したことに始まる。定綱が訪れた時の隠岐国は、気候は不順、五穀も不熟、人畜ともに病災に苦しむという有り様だったという。このような困窮の実状を救済することこそ地頭の債務であると考えた定綱は、本国近江の国より日月そのほかの神々を勧請したのである。そして、日神を元屋の八王子神社に、月神を中村の常楽寺(現在、月神は中村の一之森神社に奉斎されている)に奉斎するなどして日月陰陽和合の祭事をとりおこなった。すると人畜は無病息災、五穀は豊作になったという。以来祭りは継承され、その歴史を7百年に数えるまでになっている。
10月7日、祭の大役を決定する頭宿とうやど始めを行う。役が決定するとすぐに、陰陽胴、楽人、行事役神相撲、占手、巫女舞の練習が始まる。そして16日には村総出で準備を行う「らちん」、役付は自分の祭典を作る「與飾」をし、流摘馬の人々は八幡社へ参籠練習となる。迎えて18日は神々の参集夜宮、翌日19日は本祭である。武良祭は、神々の打ち別れが行われる20日で、延々14日を要す長い祭りだ。それだけに住民一同が心から望む一大行事である。また、隔年ごとの実施がさらにやる気を起こさせる。
ところで、「祭衣装」という言葉がある。この地域では晴れ着を新調するのは、武良祭のときだからである。「19日は祭りですので、20日においでください。住民老若男女総出となるので、お客をもてなすことはできません」というのだ。総出となるのは住民だけではない。小社各々10社、計22の神もこぞって参加する。
祭りの最大の特徴は、主斎神である日神・月神の御神体を1丈4尺4寸(約4メートル)の竿を頭上に捧げて御幸することで、地元では御尊像と呼んでいる。御尊像は、仏教の12天部の日天・月天の手に捧げる宝珠を形どり、直径2尺余(約60センチメートル)の円盤に日神は三本足のカラス、月神は白ウサギを浮き彫りにしている。
祭りの間には、化粧した若者が「ヘンヨー」と噺しながら大太鼓の舞打を行う「陰陽胴」や青年2人が刀の礼拝などを行う「占手」、その他「流摘馬」「競馬」「神相撲」「巫女舞」など色々な行事も行われる。
村民の高齢化などにより役作りさえ困難になった時期もあったが、今では由緒あるこの伝統行事を継承しようという若者の積極的な機運が生まれつつある。武良祭は、それだけ地区民にとっての誇りなのである。
(郷土史研究家 石川恒保)


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