心と技を木にたくす宮大工
「木は、呼吸して生きている」と、大田市に住む宮大工金田鼎さん(68)。父、故石原幸吉さんは、松江城の修理復元の総指揮者であり、出雲大社拝殿新築に携わった人物で、祖父から三代続く宮大工だ。


最終的に仕上がりを良くするのは「自分の目で見て確かめる曲線の美にある」と、金田鼎さん。
父と一緒に、広島厳島神社の社務所新築や、大阪住吉大社の楼門新築などを手がけたこともあり、現在は、大田周辺を中心に社寺の建築や修理に携わっている。

歴史ある建造物の修理をすると、数百年前の木組みや彫刻に出会い、その技術の高さに驚くこともしばしば。当時の宮大工の誇りが、時を越えてじかに伝わってくる瞬間だ。そんなとき、自分も後世に残る仕事をしていることに、あらためて身が引き締まる思いがするという。「修理ではなく、『繕う』んです」という真摯な言葉にも、木や仕事に対する気持ちが表れている。

島根県には、長い歴史を積み重ねてきた建造物の代表格に、出雲大社がある。現在の本殿は延享元年(1744)の造営で、40年ほど前、国宝・本殿にふさわしい拝殿が新築された。20代だった金田さんは、そこで建築に使用される見事なヒノキの大木を目の当たりにし、千年の年輪を持った木は千年の耐久性があることを実感したという。

加工するにしても若い木は「ほつれる」が、年輪を数多く持つ木は心が通じるように表面がなめらかに仕上がる。

「社寺には、それぞれの歴史と特徴がある。それをよく知った上で、心を尽くして木と向かい合ってこそはじめて、宮大工としての仕事ができる」。父幸吉さんから教えられたことだ。

図面には決して表れることのない、宮大工の心魂。おごることなく心を乱さず、節くれ立った指から生み出されるひとつひとつの技の中に、金田さんは己の生きざまを鮮やかに刻みつけていく。




大黒柱は今も見守り続ける


鈍く光る木肌に歴史を偲ばせる重厚な大黒柱。島根県にある豪壮な屋敷構えの家屋が持つ大黒柱は、江戸時代から何代にも渡って受け継がれ、そこに暮らす人々を支えてきた。

そのなかで、大社町にある出雲地方の代表的な旧家藤間家の大黒柱は、全国一の太さといわれる。

元は近江源氏の末裔である藤間家は、中世末に現在地に居を構え、江戸時代には酒造業のほか、千石船によって北は松前から南は長崎まで手広く回船業を営んだ豪商だ。松江・浜田両藩の本陣や勅使の御本営も務めた格式を誇る。

建物は約400年前の建築とされる大型民家で、17坪余りある広々とした土間に直径73センチの大梁、そして、それを支える直径52.7センチの巨大なマツの大黒柱がひときわ目を引く。

大黒柱は、かつて家運の隆盛を象徴すると同時に、心の支えとしての重要な意味を持っていた。それは、国宝・出雲大社本殿中心に鎮座する「心御柱」が、神が降臨する柱であることに代表されるように、御柱そのものが神の依代であり、家屋の大黒柱もそこで生活する人々の心のよりどころとして暮らしを育んできた。しかし、現在は効率性を重視するあまり心を支える意味は薄れ、大黒柱のある家は少なくなってきた。

「柱は『木の主』と書き、また、神様をヒトハシラ、フタハシラと数えるように、古代から日本人は木に感謝し木と共存してきた」と、19代当主藤間亨さん(72)は言う。

大黒柱が長い時を経て見守ってきたそれぞれの暮らしの営みのなかで、その家独自の文化が培われ「家風」となり、「しきたり」や「もてなしの心」を継承しながら「感性」を育む日々の生活が、途切れることなく積み重ねられてきた。

400年の歳月を経て、歴史の光彩を放つ藤間家の大黒柱。その静かな輝きに目をやっていると、それぞれの時代を懸命に生き抜いた家族の声や息づかいまで、はっきりと聞こえるように感じられる。


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